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マイナーで、マニアックな保険会計に潜む重大な会計問題
羽根 佳祐 准教授
経済学部 経営学科
専門分野:規範的会計研究
羽根 佳祐 准教授
経済学部 経営学科
専門分野:規範的会計研究
そして、国際会計基準委員会は、保険会計基準開発の足掛かりとして論点書を公表しました。論点書は、保険会計の策定に関連する諸論点を整理・分析したもので、それぞれの論点に対する国際会計基準委員会の暫定的な見解も示されていました。そこで示された見解は、これまでの会計実務を全否定し、新たな会計モデルを構築しようとするものだったのです。
すなわち、現行の会計実務では、責任準備金の測定値が最新の情報を反映していないため、その測定は客観的な方法で行うべきだとして、論点書では、市場整合的な測定方法を採用することを提案しました。具体的には、保険会計に対して、公正価値モデル(資産・負債の公正価値の評価から利益を算出する会計モデル)を適用することが提案されました。
公正価値は、理念的には活発な取引市場で決まる測定日時点の資産・負債の移転価格、つまり、資産でいえば「今売却したらいくら受け取れるか」、負債でいえば「今誰かに引き受けてもらうにはいくら支払うか」という金額です。公正価値のような市場価格を参照すれば、客観的で、かつ最新のストック情報(とくに、積み立て不足に関する情報)を提供することができ、保険会計の「ブラックボックス状態」の解消が期待できます。しかし、保険契約には活発な取引市場はなく、また、保険会社は、再保険(保険会社が別の保険会社と結ぶ保険契約)を通じて、自己の負担する保険責任を再保険会社へ移転することはありますが、それは保険責任の全部ではなく一部であって、しかも保険会社間の相対取引ですので、再保険市場から公正価値を観察することは困難といえます。そもそも、保険会社は、契約者から引き受けた保険契約を他社に安価で移転して「利ザヤ」を稼ぐというようなビジネスモデルではなく、契約を履行することを予定しています。
保険会計に対する公正価値モデルの適用は賛否両論でしたが、国際会計基準委員会の「公正価値モデルを適用する」という方針は、後身の国際会計基準審議会に引き継がれました。しかし、公正価値モデルに対する懸念を払拭する解決策を提示できることなく、基準策定作業は長期化の道を進むこととなったのです。
国際会計基準審議会も責任準備金の測定モデルとして公正価値モデルを提案しましたが、市場関係者は反対しました。公正価値モデルの問題点として特に批判の的となったのが、責任準備金を公正価値測定する際に、負債の発行体(保険会社)の信用リスクの影響を反映させる点でした。公正価値は、以下の計算式のように、測定対象項目から生み出される(市場整合的に見積もった)将来キャッシュフローを、割引率(将来の価値を現在の価値に直すために用いる利率)で割引く(これを割引現在価値計算といいます。)ことにより算定されますが、割引率の決定要素に発行体の信用リスクを含めることが常です。
このため、発行体の信用リスクの変動を反映する形で責任準備金を公正価値測定すると、発行体の信用リスクが高まった(発行体の信用状態が悪化した)際に割引率が上昇し、負債の公正価値が下がる(負債が減額する)形で、負債の再評価益(債務免除益のようなもの)が生じます。発行体の信用状態が悪化したにもかかわらず、利益が認識されるという直観に反する状況は「負債のパラドクス」と呼ばれており、実際、2009年の金融危機の際に、Citigroupなどの米国大手金融機関が巨額の負債評価益を計上し、赤字転落を免れたことが批判されました。
また、信用リスクの問題とは別に、公正価値モデルを適用した場合、契約締結時に、契約から生ずる権利(保険料などの契約から生ずる将来収入額の現在価値)と義務(保険金・給付金などの契約から生ずる将来支出額の現在価値)を公正価値測定し、それらの正味差額として、保険資産ないし保険負債を認識すると同時に、契約時利得・損失を計上することになります。保険会社が自身にとって不利な契約を結んでいなければ、通常は、権利額が義務額を上回り(つまり、将来生じる保険料総額が保険金総額を上回り)、その差額が利得として計上されます。すなわち、公正価値モデルのもとでは、契約を締結すれば、保険サービスを提供していないにもかかわらず、その時点で保険会社は利益を認識するのです。これもかなり違和感のある処理です。
結局、国際会計基準審議会は、市場関係者からの大きな反対を抑えることはできず、責任準備金への公正価値モデルの適用を断念しました。ただ、責任準備金を毎期再測定する処理は残しつつ、市場整合的な変数を用いることにこだわらず、信用リスクの反映は禁止され、契約時利得が生じる場合にはその差額部分をマージン(安全割増)として繰り延べることとしました。このマージンは、契約期間にわたり保険サービスの提供パターンに沿って収益配分されます。
公正価値モデルが提案され紛糾した保険会計基準の策定作業が収束したのは、当時、保険会計基準の策定作業よりいち早く基準化の目途が立っていた収益認識プロジェクトの考え方を取り入れたことが大きいといえます。国際会計基準審議会は、保険会計基準の策定プロジェクトと同時並行して、一般事業会社の収益認識会計基準の開発作業を行っていました。前述のマージンを毎期規則的に収益配分するという処理は、収益認識プロジェクトで提案された配分モデル(取引価格の期間配分より利益を算出するモデル)と整合的なものでした。
国際的な保険会計基準は2017年に公表されましたが、会計基準の策定に四半世紀を要しました。プロジェクトが長期化したのは、基準設定主体である国際会計基準審議会と市場関係者との間で、保険会計のあり方を巡って重大な意見対立があったためです。
国際会計基準審議会は、保険契約を金融商品の一種とみなしており、デリバティブ取引と同様に、その契約上の権利と義務の価値を測定するアプローチ、すなわち公正価値モデルを支持しました。
一方、市場関係者の多くは、契約の履行状況を捕捉・伝達することを保険会計に期待しているといえます。そして、このような情報ニーズを満たす会計手続は、伝統的な会計手続と大きく違わないものでした。伝統的な利益計算を支える考え方として、実現概念および費用収益の対応概念があります。これらの概念の解釈は時代の流れとともに変遷があり一様ではありませんが、財やサービスの流れに即して収益・費用を認識するアプローチであることに変わりはありません。保険会計でも「契約の獲得」ではなく「契約の履行」に焦点を当てて、保険会社が実際に行った活動を追跡し、その成果を報告するものとして基準化されており、伝統的な考え方を踏襲したものといえます。企業会計を支える基礎概念の変わらぬ存在意義が、保険会計を巡る議論の中でも再確認できたといえるでしょう。