成城大学

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柳田國男について

成城学園との親交

成城学園の父兄として

当時牛込加賀町に住んでいた柳田國男は、大正10年秋から長男の為正を近所の成城小学校に入学させる。為正自身も自著『父 柳田國男を想う』で、「澤柳政太郎博士は、隠れもなき長野県人、旧松本藩の御出身ときく。大正初年、父が貴族院書記局づとめの当時、同先生には貴族院議員、また文部省の最高頭脳の一人であられ、とくに国語問題で進歩的な発言を続けておられたようだ。大正六年、先生が官を去って独自の実験学校を市ケ谷原町に創立されたのは、父の(貴族院書記官長)辞職・下野の二年前だった。同十年、学齢期に達した不肖の入学先としてこの学校が選ばれたのは、両親はのちのち『電車通りを横切切らずに徒歩通学ができる』という安全第一の点を強調していたが、実は澤柳先生への信頼と期待とがあってのことと察せられる。父國男にとっては年齢からも大分先輩に当たるが、いわゆる『薩長』勢力がいまなお中央官界を牛耳っていた当時として、非主流官人キャリヤーの先導たる同先生は、骨の髄まで開明派的な日頃の発想と併せて、父の信頼する御人だったはずである。 (中略)そのころ何かの式日に父が珍しく同行したのには理由があったが、たまたまその小田急電車内で、礼装姿の澤柳校長と御一緒になったときの、さすがの父の立礼のおのずからなあらたまった鄭重さだけが、いまも印象に残る。」と述べている。
 また柳田國男の秘書的役割をつとめた鎌田久子本学名誉教授は、「柳田先生は、親交もあり尊敬もしていた澤柳先生の当時としては進歩的な教育方針に共鳴したからだと思いますよ」と言う。柳田家と澤柳家とは共に、名高い教育県信濃の出身という共通点もあり、姻戚関係もあると聞く。なお柳田國男と澤柳政太郎の関係については、本学初等学校の⽵下昌之教諭が研究成果を『社会科「教材開発」入門』に詳述されているので、ぜひご参照いただきたい。

柳田國男の教育観

敗戦後は、社会制度・教育制度ともに大変革を余儀なくされた。国定教科書が検定教科書となり、新たに「社会科」という科目が実施されるようになった。この戦後新教育は、「アメリカ的な民主主義社会の建設」を理想像とし、これまでの日本人が精神的拠所としていた社会伝統を「封建遺制」として否定する傾向にあった。
 そうした風潮に対し、柳田國男は戦争に至った教訓から「民衆に疑問を持たせ、賢い判断力を養成する」教育の必要性を説き、他国の物まねでない自国の歴史や民俗伝統に根ざした社会の建設を考えた。そこで古稀を越えていたものの柳田は、「民俗学を現代科学の一つにしなければならぬ」(「現代科学と言うこと」昭21.9講演)と決意する。そして未来を担う子どもたちの教育、特に国語教育・社会科教育に対して積極的に発言し、情熱を持って取り組んでゆくのである。
 昭和23年5月に東京書籍の教科書「新しい国語」の監修を引き受けたのだが、ともに編集委員をした大藤時彦によると、「教材の選定や取材範囲などについてもいちいち具体的に指示され意見を述べられ、熱意を持って教科書の編集にあたられていた」という。また柳田の主張した国語教育の目的は、「よき選挙民をつくりあげることで、選挙民として候補者のいうことを的確に判断する能力と自分の考えを率直に他人に表現できる力をつけることが肝腎であると常に述べられていた」ともいう。国語教育の方向については、自著の『國語の將來』、「國語史の目的と方法」、『西は何方』等で、「これからの国語教育は、読み書きの教育に偏らず、まず聞き方から始めるべきとし、話す力をつけさせる方向で、教える者も教えられる者と共々に更に多くを学ぼうという心掛けが必要」と教師達に望んでいる。社会科教育についても国語教育同様、「疑問を持たせる教育」を念頭に「史心を持った選挙民」の育成をはかることに重点をおいたと大藤時彦や庄司和晃、その他関係者が述べている。そのためには、今までの歴史教育がやってきたような、質問を封じて聞き馴れない名前や年月を詰め込む方式は改めるべきとした。

社會科の初期の課程は、今と昔との差異、今ある事物の原因は必ず以前に在り、それも大部分は人間の選擇で、さうはならずにすむ場合もたしかにあつたのだといふことを、次々と自分で心づかせて、それを將來の政治行動、殊に年々の選擧の判斷に役立たせるやうにしたいものである。
國の失敗は大も小もすべて取返しのつかぬ過去の事だとは言ひながら、それを再びせぬ用心の為のみならず、逆にこの經驗を活用して、偉大なる再建を為し遂げる場合も必ず有り得る。
どうか無邪氣な者の疑問を抑壓せず、又は小ざかしい口さきだけの解答を誘導せずに、努めて多數者の一致した知識欲に應じようとするならば、我々の學問は次第に成長して行くであらう。又成長しなくてはならぬのである。人は長幼を通じてまだまだ莫大な無知を持つて居る。 各自の生活からにじみ出た自然の疑惑こそは、學問の最も大いなる刺戟である。是を些々たる要項の暗記によつて、一通りは習得した如く自得させるなどは、一言で評すれば文化の恥である。(「歴史教育について」)

成城教育への協力

成城学園の教育に対しては深い共感を持ち、数々の講演・講話等を通して協力している(参考資料・主要参考文献を参照)。また戦後の教育に並々ならぬ関心を持っていた柳田は、成城学園教師(菊池喜栄治ら7名)のために「社会科研究会」を開き、自身の社会科構想を語り我国の未来の担い手を育成するための教師を養成しようとした。『定本柳田國男集』の年譜によると「昭和24年6月16日、この日より毎週木曜日、成城学園教師のために社会科研究会を開く」とあり、以後2年6カ月にわたり柳田の自宅兼研究所で成城小学校教師達と勉強会を行ったという。1回で3時間から5時間にわたる熱心な会であったという。そこで成城小学校の教師達は、柳田が提供した「話題」を参考に成城小学校の社会科カリキュラムを作成、昭和26年10月に『社会科単元と内容』という小冊子をまとめた(但し、柳田はこういったものに関しては消極的だったようだ)。柳田は、「社会科」に教科書を使うことには一貫して消極的で「教科書はないほうがいい」と言う意見を持っていたが、常々語っていた観点からの教科書なら作ってもよいとして、監修したのが実業之日本社刊行の『日本の社会』(小学2年~6年,昭28)である。これは、柳田の指導下にあった(財)民俗学研究所の関係者と、実際に社会科の教育にあたっていた成城学園の菊池喜栄治をはじめとする教師達とで社会科教育についての談話会を持ち、情熱を傾けて作りあげた教科書である。
その教科書は、児童の発達段階に合わせながら、教材、文、さし絵等すみずみまで巧みな心配りがされ、興味を持たせる工夫がなされている。「(歴史教育は)始めるとすれば早い方が却つてよからうかと思ふ。出來ることなれば、三學年からにしてみたい」と柳田は言う。小学3年教科書に記載される「先生と父兄の方へ」の一文を見てみよう。

  • 一.三年生になると、児童の経験範囲が拡大され、郷土を中心とした自然及び社会環境のなかに起こるさまざまな現象に興味を持つようになります。そこで日本各地の人たちが営んでいる郷土生活の中から、児童が直接に経験しうる教材をとり、それを単純化し、興味深く排列するようにしました。いいかえれば、架空的な郷土中心の単元展開をさけ、巧みに身近な郷土の現象から発展させ、日本各地の郷土の社会機能と協同生活が理解できるようにくふうしました。
  • 一.教材は、できるだけ日本民族の文化的発展のなかからえらぶようにつとめました。単元「こよみ」「たべもの」「うたとことば」で扱っている教材はその代表的なものです。(中略)
  • 一.表現は学習上、手のかかる長文の物語形式をさけ、ほとんど各ページに新たな話題をもうけて、児童へのよびかけの文にし、児童自身に問題解決の意欲がもり上がるよう新機軸を試みました。
  • 一.ゆたかな話題とやさしい文と、適切なさし絵の組合わせによって、どこの村、どこの町、どこの都会の児童も社会科学習を楽しめるようにくふうしました。(中略)柳田国男

この教科書『日本の社会』は、昭和30年度に改訂版を出したが、33年度改訂の『指導要領』による教育課程が実施された36年度からは姿を消してしまった(但し、昭和60年に第一書房より復刻版が刊行されている)。東京書籍の国語の教科書は、よく売れたというが、実業之日本社刊行の『日本の社会』は、発行元の事情や入学試験に役立たないと言う声もあり、普及せず8年間程で廃刊されてしまうのである。
「笑い」や「ことわざ」を通して子供に悟らせるような日本の伝統的教育を評価していた柳田は「暗記」や「教師による指導」が中心の近代の学校教育について批判的な立場をとった。「私は被教育者、もしくは彼等の言ひ分を代表する者」と自認した柳田國男の教育に対する姿勢は、一貫して子どもの視点に立つ。子供に対する愛情あふれる柳田の教育論は、きわめて示唆に富んでおり、教育の真髄を見る思いがする。 現在読んでも、啓発されるところ大である。