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近代中国の多様性—通貨の事例から
林 幸司 教授
経済学部 経済学科
専門分野:東洋経済史
林 幸司 教授
経済学部 経済学科
専門分野:東洋経済史
このように中国では、その地域ごとに複雑な通貨制度が展開し、これらを上海向け為替「申匯」によって結ぶ交易決済網が形成されていました。そのなかで、1927年、南京国⺠政府が成⽴し、翌年には東北部を除く中国が、国⺠政府のもとに統⼀されました。清朝崩壊以後、久々の本格的統⼀政権となった南京国⺠政府は、国家財政の確⽴を⽬指すべく、通貨改⾰を含む様々な経済政策を⽴案していきます。1933年に前後して全国で実施された「廃両改元」は、全国で使⽤されている多種多様な銀通貨を、公的機関が発⾏する「銀元」と、政府系⼤銀⾏(中央銀⾏、中国銀⾏、交通銀⾏、中国農業銀⾏など)が発⾏権を有する兌換紙幣に統⼀しようとするものでした。この改⾰は、それまでの複雑な通貨制度の統⼀をはかるだけでなく、旧通貨の回収を通じて政府が通貨制度へ積極的に介⼊するきっかけとなりました。上述の四川省では、軍事勢⼒の抗争による不安定な経済状況の下、上海⽅⾯への⼤規模な銀地⾦流出が⽣じていたため、1930年に全国に先⽴って廃両改元が実施され、価値が⼤きく下がっていた四川域内の通貨の回収が⾏われています。こうして1930年代初頭までに、中国では⼀定の形状や品位をもつ通貨、そしてこれにリンクする兌換紙幣への移⾏がなされたのです。
銀元など、「銀」を事実上の本位貨幣とする中国は、1929年に欧⽶など⾦本位諸国を中⼼に⾦融恐慌が発⽣した後も、⽐較的安定した経済状況を保っていました。しかし1934年のアメリカ銀買い上げ法によって、銀の国際価格が⾼騰すると、世界中の銀がアメリカへと集まります。そして中国からも⼤量の銀が国外へ流出し、深刻な通貨不⾜が⽣じました。これを受けて中国では「幣制改⾰」が断⾏され、銀元との兌換関係をもたない不換紙幣の「法幣」が本位通貨とされました。これは、管理通貨制度の確⽴とともに、政府による経済への介⼊強化を意図するものでした。
こうして中国では、重層的な通貨制度が解消されたかに⾒えました。しかしながら世界は恐慌後の不況のただなかにあり、この状況から脱するべく各国で国家主義的な経済政策がとられ、アジアではそれが⽇本による中国⼤陸へのさらなる侵略へとつながり、中国は⼀気に世界戦争の波に飲み込まれてゆきます。中国の通貨は、⽇本との戦争を背景とするハイパーインフレーションを経験し、第⼆次世界⼤戦の終結後は、国⺠党と共産党の内戦勃発と共産党の中華⼈⺠共和国建国という流れの中で、破綻を迎えます。そして中国⼤陸では、外貨との関係遮断と現物とリンクした新通貨、そして1950年代中頃の新⼈⺠元導⼊まで、また台湾ではアメリカによる援助を背景とする新台湾元の導⼊まで、混沌とした状態が続くこととなったのです。