成城大学

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近代中国の多様性—通貨の事例から

林 幸司 教授
経済学部 経済学科
専門分野:東洋経済史

introduction

   私の研究対象としている中国は、⼤変多様性に富む地域です。今も昔も、この多様性こそが中国の歴史を動かす原動⼒であると⾔えますが、これには様々な歴史的背景が存在します。ここでは、私の研究の⼀部である、近代中国における通貨の多様性とその経緯について紹介することとしましょう。
   19世紀末から20世紀初めの中国では、不平等条約体制の下、経済発展の黄金期ともいうべき状況が生じていました。1842年のアヘン戦争以降、上海などの条約港で設定された「租界」と呼ばれる外国人居留区では、日清戦争後の講和条約である下関条約で外国の工場設置権が認められたことから、綿紡織業等の近代企業が相次いで設立されます。これら新たな企業への投資のために銀行などの金融業が発展し、企業の株式を取引するために証券取引所等が整備され、これに付随して様々な経済制度が導入されました。そしてこうした転換は、沿海都市部だけでなく内陸部へと広がっていきます。このように世界経済へと接合されようとしていた中国経済の背景には、通貨をめぐる大きな環境変化がありました。

1 「銀」と「銅」—前近代中国の通貨制度

   前近代中国における通貨は、⼤きく分けて「銀両」と「銅銭」という⼆種類の秤量本位貨幣が同時に流通する、銀銅複本位制がとられていました。ここでいう「銀両」には、⼆つの意味が含まれています。まず、秤量貨幣⽤銀地⾦そのものを指す場合です。重量や品位がまちまちのそれらは、「銀錠」と呼ばれる⾺のひづめのように鋳造された銀の塊の形で流通し、主として遠隔地交易決済や納税、⾼額取引のさいに⽤いられました。つぎに、重さの単位である「両」を基準とする貨幣単位を指す場合です。中国では、地域や⽤途によって多くの銀通貨が流通していたことから、これらを改鋳することなく決済するために、記帳単位としての「銀両」が⽤いられていました。各地の銀両は、秤量に⽤いる「平」と、品位を表す「成⾊」によって換算流通されていたのです。

   ⼀⽅、「銅銭」は、⽇本でもおなじみの真ん中に⽳の開いた銅銭の形で、⼀枚ずつ使えば「⽂」、またこれをひもでつないで使えば「吊」という単位で流通します。銅銭は1吊1000⽂であることが原則ですが、銅銭の不⾜状況を反映して、実際には980⽂程度を1吊として流通していたようです。こちらは⽇常的な少額取引や、補助通貨として⽤いられていました。銅銭は歴代王朝が国家の威信をかけて発⾏してきたもので、その意味で国内外に⼤きな影響⼒をもつものでしたが、国家財政や商取引などは銀両によって表記されるのが⼀般的であり、その意味で中国は銀を通貨の基礎とする「銀本位」の経済圏であったと⾔えます。その⼀⽅で、中国では伝統的に政府が通貨政策にそれほど介⼊してきませんでした。とくに銀両は、発⾏が⺠間の溶融業者にゆだねられており、その形状や品位が地域や⽤途によって⼤きく異なっていたため、銀両と銅銭の両替や為替を取り扱う⾦融業者も多く出現しました。さらに、これらの⾦融業者の中には、本位貨幣とリンクする事実上の紙幣としての「荘票」を発⾏するものもありました。

   さて、このように中国では伝統的に銀両と銅銭という⼆つの本位貨幣が流通していたわけですが、両者にはどのような関係があったのでしょうか。ここでは⼆つの側⾯を紹介することとします。⼀つは、上記のように、銀両と銅銭が⽤途や地域によって「棲み分け」をはかるものであったということです。そしてもう⼀つは、銀両と銅銭が互いに交換可能なものであったということです。銀両と銅銭は、互いに棲み分けているという性格上、これが交易や納税などのために「交わる」際には、これらを「両替」する必要が⽣じます。このため、銀両と銅銭の間には、両者の需給状況によって変動する「銀銭⽐価」と呼ばれる交換⽐率が存在しました。

   これらに加えて、18世紀後半頃からは、スペイン領ラテンアメリカで鋳造された、カルロス・ドルと総称される銀貨(メキシコの独⽴以降はメキシコ・ドル)が、イギリス東インド会社などによって持ち込まれ、沿海部を中⼼に流通していきます。これらは、円形で⼀定の重量と品位をもっており、中国では丸い銀を意味する「銀元」と呼ばれます。そしてこれらの銀貨を追いかけるようにして、イギリス系の⾹港上海銀⾏をはじめとする植⺠地銀⾏が中国へと進出しますが、これらの銀⾏は、銀貨との額⾯通りの兌換を保証する「兌換紙幣」を発⾏していました。こうして20世紀初頭の中国では、銀両・銅銭・荘票・銀貨・兌換紙幣など、多様な通貨が流通することとなっていきます。

2 中華⺠国以降の通貨制度

   1912年に中華⺠国が成⽴した後、⾸都北京に中央政府が存在する⼀⽅で、各地で軍事勢⼒が⾃⽴的勢⼒を打ち⽴てていくと、通貨の状況はさらに複雑なものとなっていきます。ここで具体例を紹介してみましょう。上海から⻑江をずっと遡ると、三国志の蜀漢や、李⽩の詩「早発⽩帝城」で有名な四川省にたどり着きます。四川省は、中華⺠国成⽴の際いち早く独⽴宣⾔を⾏った地域ですが、その後軍事勢⼒の割拠と混乱の時代が続きました。1930年代に⾄り、抗争は⼆⼤勢⼒——政治の中⼼・成都を中⼼とする平野地域や、チベット東部(カム、⻄康)を地盤とする軍事勢⼒劉⽂輝と、経済の中⼼・重慶を地盤とする軍事勢⼒劉湘——に収斂されていきますが、この四川省では、混乱した政治状況を反映して、清代からの銀両に加えて多種多様な銀貨が使⽤されています。メキシコ・ドルなどと同様の「⼤洋」と呼ばれた中国製銀貨には、袁世凱の肖像をかたどった「袁頭銀」など16もの種類があり、この他にも、6種類の「半元」や、4種類の「⾓洋」などの銀貨が、それぞれ異なる機関によって製造され、流通していました。これらの銀貨は、その重さや品位がまちまちで、四川省内であっても地域によっては割り引かれたり、使⽤を拒否されたりする場合がありました。銅銭については、清末期以来の銅銭不⾜を背景として、四川北・中・⻄部では額⾯200⽂、つまり1枚で銅銭200枚分に相当するという「当⼆百」銅貨が、四川南・東部では同じく額⾯100⽂の「当⼀百」銅貨が使⽤されました。また重慶や成都などの⼤都市では、公営銀⾏(官銀号、省銀⾏など)・⺠間銀⾏が発⾏する各種兌換券が流通していました。さらに、軍閥政府は財政再建や軍費調達を名⽬とする多額の公債を発⾏し、これを新たに作った証券交易所で現⾦化したり、市中銀⾏に引き受けを強制したりしていました。このような中で、四川省ではすでに貴⾦属そのものの価値と実際に流通する通貨の価値が分離する傾向が⽣じていきます。また、これら四川で流通していた各種通貨は、四川域外では通⽤しませんので、たとえば上海などとの交易決済に際しては、「申匯(上海向け為替)」とよばれる内国為替を取り組んでいく必要がありました。この「申匯」は、上海と四川以外の諸地域を結ぶものでもあり、上海を中⼼とする交易決済網の形成を促していくこととなります。