柳田國男について

「日本民俗学」の普及活動

街づくりに取り組んだ柳田國男

先に記したように、柳田國男が当地に自宅を建て移り住んだのは昭和2年9月10日のことであった。以来生を終えるまでの35年間、地域の植林を中心とした街づくりや文化事業に積極的に関わっている。 柳田は、昭和15年に著した「美しき村」(『豆の葉と太陽』所収)のなかで、「村は住む人のほんの僅かな気持から、美しくもまづくもなるものだといふことを、考えるやうな機會が私には多かった。」と言い、自分の新住宅地にも何か名物になるような特色ある風景をと考えたようである。
第一に試みたのが、「小柿の村」という構想である。晩秋の信濃路を歩いた時、どこの畑にも無造作に立っていた《信濃柿》の強い印象からである。友人に頼んで苗木を200本程取り寄せた。「小柿の好きなむじなが來ますぜ」と言った人も居たが、近所の家々に配ったという。この計画は実を結ばなかった。信州のように強い霜がこず、いつまでも葉があって其の中で実が干からびてしまったからである。 柳田は、「斯ういふ風土をわきまへぬ設計は、寧ろ丸つきり立てなかった場合よりもまづい、といふことを私は新たに學んだのである。」と反省している。
次に計画したのが、「村を杏の林にしようといふ第⼆の夢」であった。北信や安行から苗木を取り寄せ、「時々は、いりませんよなどゝ金切り聲で追ひ拂はれるが、是も一種の押賣だと思ふと、こそこそと退却して來るより他はなかった。さうして結局はどうにか斯うにか、うちの五六本を残して皆かたづいてしまったのである。」という。ところが、これも杏の横枝を出して曲がりくねる癖から地域にあまり根付かなかったようである。そして「自分も時折はただの散歩を装うて、それと無く様子を見てあるいたこともあるが、この三四年はさういふ事も斷念して居る。作者が率先して忘れてしまふやうで無くては、村の風景などは出來あがるものでないことを、遅まきにやっと氣がついたからである。」と悟っている。
最後に試みたのが、昭和24年5月、自身で編集していた『民間傳承』13巻5号に「梅についてのお願ひ」という次の一文を掲載したことである。

「民俗學とは直接に関係ないことですが、目下この土地の故老の間には、梅林講といふ名の下に、梅を多く栽ゑて見ようといふ計画があります。自分も研究所の創設者として、その所在地との永い因縁を繋ぐ為に、少しの御手傳ひをしようと思つて居ます。毎月地方からの訪問者の多いところから考えついたのですが、袂に入れて來られるほどの小さな梅の芽ばえを、全國の各村々から集めて、この庭で少し育てた上で、家々の垣根へ分栽することが出來たら、樂しいことだらうと思います。費用はもちろん私が出しますが、出來るだけ金を使はずに、方々の種を集めて見たいです。ただ梅の親木の在りどころだけは、綿密に記録して置きたいと思ひます。どうかご援助を願ひます。 柳田國男 」

近所の長岡家で成長した《杏の木》は、今でも可憐な花を咲かせ道行く人をも楽しませてくれると聞く。また柳田から「梅の木を進上しましょう」と言う話があり、そのうち取りに行こうと思っているうちに、先生自ら梅の木を持たせた植木屋を連れて現れ、植える場所まで見立てたという《伊原宇三郎(柳田國男の肖像画を描いた画家)家の紅梅》も年々歳々見事な花を咲かせているという。

また、地域の関係者及び機関からの講演や寄稿依頼にも応えている。

自宅書斎の解放

柳田國男は、昭和9年には自宅で行なった民間伝承論の講義を発展させた形で「木曜会」を発足させ、自宅を「郷土生活研究所」と名付けて書斎(『喜談書屋』と称したという)を開放する。そして百項目の調査項目を印刷した『郷土生活研究採集手帖』を作って全国的な山村調査を開始する。因に、調査者の手で報告が記されたこれらの手帖は、後になされた沿海・食習・離島採集手帖とともに「柳田文庫」の貴重書として所蔵されている。翌10年には、還暦の年を機として「民間伝承の会」(現・日本民俗学会の前身)を作り、雑誌『民間伝承』を発刊、全国的な民俗学研究者の組織づくりを始める。
昭和22年には、郷土生活研究所、木曜会を発展的に解消させ、自宅の書斎および蔵書を提供して民俗学研究所を設立し、翌年、財団法人の認可を受け、民俗学研究の中枢機関として発足させた。資料を整理して利用しやすい状態にすること、専門研究家の養成等がその主目的で、『民俗学辞典』『総合日本民俗語彙』 等の編纂も行なった。

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