富山研究室へ、よここそ! トヤマではなく、トミヤマです。ドイツ語で、プロフェッサー・フォン・ライヒェンベルクと呼んでください。などと、冗談から始まってしまいましたが、ドイツ語とかドイツ文学というと、とかく固いイメージがつきまとってしまいますが、オーストリア文学の世界に一歩足を踏み入れると、このイメージはたちまち解消してしまいます。
第一次世界大戦終結とともにハプスブルク帝国が崩壊し、それ自体では存在さえできなくなってしまったオーストリア共和国。この第一共和国で、ブルク劇場の支配人に二度も登用されたアントン・ヴィルトガンスは、その最晩年にラジオ放送された『オーストリア講演』の最後を、「オーストリア人はパイアケスの民だ」と締めくくっています。ドイツであってドイツでなく、ドイツでなくてドイツである、そういう奇妙な位置を占めているのがオーストリアだ、などと言ってしまえば、あまりにもひどい暴言になってしまいますが、このような暴言が暴言でなくなるところに、またひとつのオーストリア性のようなものがあります。
いま、オーストリア性という言葉を使いました。それはいったい、どういう意味内容をもった言葉なのでしょうか。というわけで、先に挙げたアントン・ヴィルトガンスや、ハプスブルク帝国への鎮魂歌を書いたヨーゼフ・ロート、一見オーストリアともハプスブルクとも何の関係もないように見えながらオーストリア的作家と評されたエルンスト・ヴァイス、それに、ドイツ語で書き続けパリで事故死したハンガリー人エーデン・フォン・ホルヴァート・・・・・・このような両大戦間期のオーストリアの文学者たちが、私のおもな考察の対象です。
今年度の授業では、久しぶりにフランツ・カフカの小品を読みながら、あたらしい「読み」の可能性を探っています。カフカに導かれてこの世界に入ってしまったぼくですが、最初のウィーン留学のとき、カフカの描く世界がまったくの架空などではなく、むしろごくふつうのことだったのではないかと気づきました。なにしろ、ぼくがお世話になることになっていた先生の研究室もその先生が教えていた大学の教室も、大学本館のなかではなく、オペラ座近くの、国立劇中切符売り場の2階にあったのですから。1階の切符売り場の人にその先生の研究室のことを尋ねても、そんなものは知らない、そんなことは聞いたことがないなどという返事しか帰ってきません。住所はたしかにその建物の2階なのに、その2階にどうやって行ったらいいのか、まったくわからないのですから不思議です。
カフカが生きたのは、ぼくが大学の教室を探し求めてさまよったときから遡ること半世紀以上前、場所も、帝国の首都ウィーンではなく、ウィーンよりももっと暗くて狭苦しいプラハでしたから、裁判所がきちんとした裁判所の建物ではなく、いかがわしい下宿屋の屋根裏部屋にあるというのも、ごく日常的なことだったかもしれませんし、どうしてもたどり着けない城が、見上げる丘の上に立っていても不思議ではありません。階段の手摺りを転がっている生物とも無生物ともつかないモノが家に住み着いているのは、むしろ当たり前なのかもしれません。
ハプスブルク帝国なるものは、第一次世界大戦の終わりに消滅してしまいました。しかし、この帝国もまた、消滅してから本当の生命を得たかのようにさえ思われます。もはや存在しないからこそ永遠に生き続ける、まあそんな夢のような話を拾い集めるのがぼくの仕事、ということになるでしょうか。
オーストリア文化論という名前のもとに、いろいろなものが集まってくることでしょう。 |
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