基本的なテーマはあっけないほどシンプルです。様々な者たちや物たちにとりまかれながら今ここで身をもって生きているということ。このことの、生きられてはいるがしばしば気づかれていない正確な諸内実を、自他共において覚醒させること。
「身をもって」「今」「他者とともに」ということの中身をはっきりさせたくて、二十歳の頃、これらのことについて最もよく語っている哲学者の一人と思われたメルロ=ポンティを、哲学科での研究対象として選びました。その後さんざん苦しみながら大学院に進み、三十歳で博士課程を修了するまでこの同じ哲学者について追究しつづけましたが、その過程で、当初抱いていた諸疑問については一通り腑に落ちた感じを持ちました。そこで、三十を越えてからは、視野を広げる色気も加えて、メーヌ・ド・ビランを皮切りに様々な哲学者をそのつどの研究対象にし、現在は特にレヴィナスの身体論に興味をもって取り組んでいます。また上記のテーマは「環境」の問題とも関係していますので、一つの私にとっての「環境」の内実を、特に「風景」の意味と成立ちとに着目しながら考えることも行なっています。
哲学について考えるとき、よく蘇ってくる或る思い出があります。それは、大学院に進学して指導教官の先生と或る席ではじめて個人的に口をきいたときのことです。その先生は、ちょっと独り言のように、こんな風に言ったのです。「哲学研究って言うけど、そんなことより、普通に生活して家族を養っていくっていうことの方がずっと大事なんだよねぇ」と。若くて哲学に燃えていた(?)当時の私は、虚を搗かれてほとんど絶句しつつ、「え、そうですか?」と、その先生の柔らかい笑顔を見返したのですが、いまでは先生の言っていたことの意味がよくわかります(その後長いつきあいとなったその先生は、私の真の恩師です)。
どんなことだったのでしょう。それは、何かとても大事なことなのです。哲学は、哲学よりも大事な或るもののためにある。そうでなければ、哲学なんて、たんなる言葉遊び、観念遊戯にすぎない。哲学の最終的な仕事は、哲学自身よりも大事なその大事なものの大事さを、ただしっかりと確認するということにこそある、とさえ思います。
哲学者って、大抵の場合、嫌な連中です。彼らは例えば、高度な術語を駆使しながら生の名において生の真実を語り、根源的真理の権威者を僭称する。彼らはそのことで、普通に生きているひとを、あたかも生について無知なるものであるかのように思い込ませてしまう。けれども多くの場合、観念の雲に遮られて生が見えなくなっているのは、当の哲学者たち自身なのです。19世紀のブルターニュの哲学者、ジュール・ルキエは、当時の思想界を牛耳っていた哲学者たちのあまりにも学者風の思考方式を批判しながら、本当に肝心な諸真理の発見は「炭焼き人の手の届く範囲にある」のでなければならない、と述べています(遺稿ノート。「炭焼き人」とは、そのフランス語のニュアンスでは、無学な「田夫野人」のことを含意しています)。
「ことば」のせいで、我々には「もの」が見えなくなってしまっている。でも「もの」は、破廉恥なほどにも赤裸々に(しかしその当たり前のぶっきらぼうさで)そこにあり、それは、それを名指したりそれについて述べたりする「ことば」とははっきりと別個のものである。こんな単純素朴なことを、私はよく考えます。それは、現代の多くの学者たちからは鼻で嗤われそうなことではありますが、誰にとっても当たり前な、しかし格別普遍的である必要もない、ただの事実です。そして私はそのつど、これを考えるたびごとに、まるでいま初めてそれに気づいたのであるかのように、「ことば」ならぬ「もの」が現にいまそこにあるというこの平凡な事実に息を飲むほど驚かされるのです。
(私の暫定的な雑文置き場です。お暇な方は。→http://homepage.mac.com/kom1/Menu11.html)
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