文芸学部

勉強の終わり、学問の始まり

ヨーロッパ文化学科専任講師 荒畑 靖宏

成城大学に晴れて入学された新入生の皆さん、お疲れ様でした。ようやく「勉強」から解放されましたね。(本学を志望する受験生の皆さんは、入学後の自分を想像して読んでいただけると幸いです。)受験「勉強」は辛かったことでしょう。よく分かります。「勉強」は本当に嫌なものですからね。

 私も勉強は大っ嫌いでした(だから私は、謙遜でもなんでもなく、ホントに勉強ができませんでした)。その嫌な勉強から解放されたこと、これが大学に入学して私が実感した一番の幸福でした。しかし、その幸福感に本当の意味で浸れるのは、勉強ならぬ「学問」に足を踏み入れたときです。そして、かつての私と同じように皆さんも、おそらくこれまで一度もやったことのない「学問」の世界に足を踏み入れるのです。

 一度もやったことのない?──勉強の延長線上に学問があるんじゃないの?学問を志す者はやはり勉強しないといけないんじゃないの?──こうした疑問はもっともですが、そこには少し勘違いがあります。

 こう考えてみましょう。あなたが世界史が大好きで、世界史の教科書と参考書、用語集を始終持ち歩き、暇さえあれば開いて読んでいるとしましょう。そんなあなたを見た高校の先生が、「そもそもなぜ君は、外国の、しかも何百年も昔に起こったことをそんなにむきになって頭に詰め込もうとしてるんだ?」とあなたを問い質すなんてことがあるでしょうか。たぶん「なぜおまえは世界史ばっかり勉強してるんだ?」と言われたことならあるかもしれません。しかしこれは、前者の問いとは違うものです。これは非難の言葉であって、もっとすべての教科に満遍なく力を入れないと受験に勝てないぞ、というお説教です。

 ちなみに私も、大学の先生に、「なんで君は哲学ばっかりやってるのかね?」なんて訊かれたことは一度もありません(恥ずかしながら私の専門は哲学なのですが、私が学部生の頃にこう訊かれたことが一度もないというのはスゴイことです。なぜなら私は「間違って」法学部に入ってしまったからであり、しかも四年のあいだ、試験前に友人のノートを写す以外はまったく法学や政治学の勉強などしないで哲学の本ばっかり読んでいたからです)。

 しかし、こう問い質されたことはあります。「なんで他ならぬハイデガー自身が放棄した基礎存在論をまだこのうえ展開しようなんて考えてるの?」(意味は分からないと思いますが、まあそれは無視してください)。そう、これはまさに高校の先生が(おそらく)決して投げかけない問いなのです。

 この違いはどこにあるのでしょうか。もちろんそれは、「勉強」と「学問」の違いにあるのです。勉強にあなた個人の動機づけなど要りません。それはあなたに課されたタスクなのですから、あなたには嫌も応もありません。しかし学問においては「ほかならぬ私がこれをやる意義」がすべてであると言っても過言ではありません(とくに私は専門が哲学なので敢えて過激な主張をします)。

 これを逆に言えば、「私はかくかくしかじかの理由からこれを研究したい」というまっとうな動機づけがなければ、そしてそれを正当化する言辞を操れないかぎりは、まともな学問は営めないということです。四年生の卒業論文を見ていて「出来が悪いなぁ」と思うものは、ほぼ例外なく、「なぜ私はこれをやりたいと思ったのか」という明確な意識が欠けているものです。この明確な動機づけの有無は、実際の論文の構成だけではなく、そもそも論文の問題設定の首尾不首尾、はては参考文献の数や選択をも左右する、学問研究の根幹にかかわる問題なのです。

 考えてみてください。たとえあなたが国文学のような限定された学問領域で卒業論文を書かねばならないとしても、あなたが(おそらくは)一生に一度の卒業論文に選べるテーマは、あなたが有限な能力しかない人間である以上、実際上はほぼ無限なのです。そんなテーマの山から、なぜあなたはそれを選んだのでしょうか。あなたには動機があったはずなのです。ですから、あなたには自分を正当化する責任があるのです。私はその意味で、勉強ならぬ学問はすべて──たとえどんなに「客観的」に見える数学や理論物理学のような学問でさえ──研究者の自己表現であると考えています。

 大学で学ぶことの第一の眼目は、この自己表現の力を養うことにあるのです。そして、やがて実社会に出てゆく皆さんにとって、人から課されたタスクをただ黙々とこなす力よりも、みずからを表現しみずからを正当化する力のほうが遙かに重要であることは明白なのです。

 しかし──とこう反論されるかもしれません──「勉強」はやはり一生必要なのではないか。たとえば今はなにをするにも「資格」の世の中である。会社に入るのだって入社試験が必要だし、人間には試験が一生ついて回るではないか。学問・研究の名のもとに自分の興味関心をトコトンまで突き詰めるのは結構だが、いずれ来る資格試験や国家試験、採用試験などのためにも、コツコツと「広く浅く」勉強する習慣を錆びつかせないことのほうが大事なのではないか?──

 たしかに「試験」は一生ついてまわります。「資格」がないとそもそもやりたい仕事もできない世の中です。でも忘れないでほしいのは、「資格」が仕事をしてくれるわけではないということ、入社試験に「合格」したという事実があなたの会社人生を安泰にしてくれるわけではないということです。資格を必要とする高度な仕事であればなおのこと、仕事をするのはあなたであり、仕事を作り出すのも、仕事の全体を組み立てるのも、計画を実行に移していくのも、そして仕事に決着をつけるのも、結局はあなたなのです。

 ということで、はからずも長くなってしまいましたが、以上をもって、辛い「勉強」から解放され楽しい「学問」の世界に足を踏み入れた皆さんへと贈る言葉とさせて頂きます。(とはいえ、夜遅く研究室のある建物で同僚の先生にお会いしたりすると、私もついつい社交辞令で「遅くまでお勉強ですか?」などと訊いてしまうのですが…)ちなみに、私ははっきり言って毎日楽しいです。哲学「しか」やらなくてよいなんて──×&*△●…。それはともかく、縁あって成城大学文芸学部に入学した(そして入学するであろう)皆さんには、ぜひともこの喜びを少しでも味わって頂きたいと思います。「学問」の世界へようこそ!

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